宇宙に漂う10つの香り

誰もいない森で木が倒れても、そこには音がたつのか——宇宙にそれを嗅ぐことのできる存在が誰もいなかったとしても、そこに香りは漂っているのか?

それはまるで禅問答のようだけれど、実際に宇宙科学の世界で研究がなされてきた領域の話だ。人類は、長きにわたって宇宙に飽くなき興味を抱いてきた。しかし惑星の真実は、わたしたちの叡智を超えて存在している。夜空の広さに、私たちは上を見上げ、そこに淡く、流れるように走る光の帯はあまりに美しくて、わたしたちはそれをロマンチックに「天の川」と呼んできた。

しかし、現在では星々への人間の好奇心は薄れてしまったようだ。宇宙旅行に行きたいなどという人間はもはや少なくなり、人類は初めて月面着陸を果たしてから40余年もの間、月面への再着陸を果たしていない。私たちはまた、なんて遠いんだろうと、地上から上を眺めるばかりだ。

しかし、宇宙の香りに興味があるという読者も少なからずいるだろう。天文学者たちが望遠鏡で確認したところ、星々にはそれぞれに化学物質の形跡がみとめられたという。それら化学物質が存在することで、そこにどのような香りが存在するかが、ある程度は特定できるそうだ。宇宙に咲く香りの数々を、ここに紹介する。

1

月は火薬の香り

わたしたちが見上げる夜空に浮かぶ、月。その月は、荒涼とした場所だという。灰色の塵に覆われ、香りを香りとして存在させるのに必要な大気を持っていない。どんな香りを探すにも適していない星だ。しかし、月面に着陸した男たちは、さらさらとした塵が覆う月面には、複雑にして絶妙な感覚的刺激があったと口をそろえる。降り積もったばかりの雪のように柔らかく、そしてきめの細かい塵が、太陽のひかりを受けてキラキラと輝いていたそうだ。しかし、真に驚いたのは、彼らが宇宙船ポッドに戻ったときのことだったという。着ていた宇宙服にはいたるところに月面の塵がこびりついており、それを口に含んでみたという宇宙飛行士ジョン・ヤング(John Young)は、それが「不味くなかった」と言っている。同じく月面着陸を果たしたジーン・サーナン(Gene Cernan)は、月面の香りを「使用直後の火薬に似ていた」と語っている。

2

土星の衛星タイタンは、ガレージの香り

土星最大の衛星であるタイタンには、太陽系に存在する月(衛星)として唯一、濃い大気が存在している。そして、銀河系で地球とならんで唯一、地表に液体が存在している星でもある。しかし、タイタンの地表に流れる川や湖で水遊びをするなどという想像をしてしまった読者にはガッカリなお知らせ——水のように見える液体は、実のところメタンやエタンなどの炭化水素だそうだ。しかも油分を含んだような、濃度の高いスープ状の液体だそう。この炭化水素の存在がタイタンの大気を黄色がかったものにしており、地表は、誰かがガソリンをこぼした後のガレージのような香りに満ちているという。ガソリンの香りが微かに覗くベンジンが雪となって、甘い香りを放ちながら空から舞い降りる——そんな世界なのだそうだ。

3

星雲はウォッカの香り

わし座には、お酒好きのひとにとっては夢のような世界が広がっているという。そこには、アルコールの湖が広がっているというのだ。巨大なガスと塵の雲が広がるわし座には、400兆パイント分のビールを作れるだけのエチルアルコールが存在しているといい、ほかの星座を構成する星雲にも、エチルアルコールの親戚にあたるが毒性の強い、エタノールが存在するのだそうだ。人間の嗅覚では、エチルアルコールとエタノールの違いを嗅ぎ分けるのは難しい。宇宙空間の香りを体験してみたいというひとは、ウォッカを香水瓶に入れて、アトマイザーで顔に吹きかけてみるといいかもしれない。

4

ひょうたん星雲は、全世界で悪名高い、あの香り

ひょうたん星雲は、全長1000兆メートルにもおよぶ巨大なガス雲。望遠鏡で見る限りでは息をのむほどに美しいが、そこに漂う香りを知れば、誰もが望遠鏡からすら離れたくなるだろう。その形状から「ひょうたん星雲」との正式名称がつけられているが、「腐った卵星雲(Rotten Egg Nebula)」という別名でも広く知られている——そう、ひょうたん星雲には、腐った卵に見られる硫黄成分が幾種類も漂っているのだ。赤く巨大な恒星が硫黄分子を押し出し、そこにガスの衝突が生まれ、数千年もの時間をかけて惑星状星雲の形状へと変化を続けている。詩的に「星のおなら」と呼んだ天体物理学者もいる、このひょうたん星雲。恒星から吐き出されるガスは、毎時約100万キロという速度で恒星から遠ざかっているそうだ。

5

彗星は猫と洗剤の香り

太陽系を駆け抜ける彗星のひとつに無人探査機ロゼッタを着陸させるという計画は、人類がこれまでに試みてきた宇宙調査のなかでももっとも成果の大きかった計画だった。ロゼッタは、チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星で多くの発見に貢献したが、その成果のひとつは香りの確認だった。しかし、その内容を知れば、誰もこの彗星を訪れたいなどとは考えないだろう。研究チームがそこに発見したのは、猫の尿や洗剤に用いられるアンモニア、苦いアーモンドのような味を生み出すシアン化水素、腐った卵に見られる硫化水素など、良い香りには程遠い成分ばかり。「その香りを体験したい」というひとびとのために、化学者たちはチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星の香りを再現したフレグランスを作り出したが、成分は少し変えたそう——興味本位でそれを嗅いだひとびとが気を失ってしまわないように——。

6

イオは火山の香り

惑星について考えるとき、わたしたちはそれらが地球と同様に生きているということを忘れがちだ。その、時が止まってしまったような美しい佇まいに、どうしてもその事実を忘れてしまうのだ。しかし、星々は生きている——太陽系のなかでもっとも活発な火山活動を見せているのは、地球ではなく、木星の衛星イオだということをご存知だろうか? イオは、木星の強力な引力によって歪められたり伸ばされたりを繰り返しており、そこに生まれる力が実に活発な火山活動を引き起こしている。イオの火山からは、木星の月にまで届くほど高くまでガスが噴出される。当然ながら、イオの大気もこのガスに満ちている。その主成分である二酸化硫黄は刺激性も毒性も強いガスで、燃やしたマッチのような香りを放つ。ほかに含まれている成分も硫黄質のものが多く、ということは、イオもまた腐った卵のような香り漂う場所ということになる。

7

消えゆく星はバーベキューとガソリンの香り

炭素原子を含んでいる芳香族化合物は、その名の通りその複雑な成り立ちから、強い香りを放つものが多い。しかしそれは諸刃の剣で、魅惑的な香りが毒性効果を隠す役割を果たしている場合も多い。その一種、多環式芳香族炭化水素(PAHs)は、宇宙のいたるところに存在していることが分かっている芳香族化合物。星はその生涯を終えると、PAHsが作り出すガスを大量放出する。この分子は、甘いバーベキューの香りから燃える石炭、ガソリンの香りまで、さまざまな香りを作り出すことができる。PAHs自体にも、生きた香りがあるかもしれないとも信じられている。研究者たちの多くは、宇宙のPAHsが地球上の生命誕生に何かしらの形で関係していたのではないかと考えている。

8

木星は、目がくらむほど激しい香りが入り混じった空間

木星は、太陽系の中で最大の惑星だ。ガス惑星であり、その大気は4層に分かれている。そこへ降りていくと、壮大なる嗅覚の旅が体験できる——生きては帰れない旅となるが……。木星の表面に見える雲のような模様は、大気の外気層に見られるもので、これはアンモニアでできているため、この大気層は綺麗にしたばかりのトイレのような香りがするだろう。さらに下へと進み、大気圏の中ほどへ辿り着くと、そこには厚い硫黄の雲が広がっている。硫黄は宇宙でもっとも多く見られる元素のひとつ。わたしたちがどこへ目を向けても腐ったものの香りに出くわすのはそのためだ。話を木星に戻し、大気圏の中でもっとも下層の大気層へと降りると、そこには、推理小説ファンの読者ならおなじみの香り、苦いアーモンドの味を生み出すシアン化水素があたりを満たしている。

9

射手座B2は、ラム酒とラズベリーの香り

射手座B2は分子雲複合体。天の川銀河の中心部近くに存在している。望遠鏡を通して射手座B2を注視していた研究者たちは、そこに世紀の大発見をした。射手座B2に、ギ酸エチルと呼ばれる分子が存在していることが判ったのだ。ギ酸エチルはアミノ酸の前駆体で、地球の生命には不可欠な成分——だから、これはとても重要な発見となった。わたしたち一般人の視点から、ギ酸エチルの存在を踏まえたうえで想像してみると、この射手座B2は大変興味深い世界だ。なぜなら、もしもわたしたち人類が射手座に辿り着くことができたとして、その分子雲複合体の雲の中を通ると、そこには濃密なラム酒の香りが漂うということになるからだ。ギ酸エチルは、ラム酒の香りを生成している成分であり、またラズベリーの味を生み出している成分でもある。宇宙には高濃度のアルコールでできた雲も存在しているから、射手座B2と合わて、宇宙のカクテル——なんて想像するのも楽しい。

10

宇宙の香りは……言い表わせない

宇宙飛行士たちは一様に、「宇宙には独特の香りがあった」と言う。しかし、その香りを言い表し、ほかの飛行士たちからの同感を得られている者はいない。フライパンで焼かれるステーキの香り、金属が溶接されるときの香り、濡れたままの服の香り、ウォルナッツの香り——これらはすべて、宇宙遊泳を終えて気密室エアロックへ入った宇宙飛行士たちが宇宙の香りを例えた言葉だ。それは、宇宙飛行士たちが気密室に入ったとき、太陽風に乗って運ばれる荷電粒子・イオンが気密室内の空気に触れて反応を起こし、誰にも言い表すことのできない不思議な香りを作り出すのかもしれない。なんにせよ、宇宙という真空の空間には香りが存在しないと思うだろうが、少なくともそこに原子が複数存在しているからには、人間の嗅覚を刺激する何かもまたそこに存在している可能性があるのだ。

ちなみに……天王星は無臭

英語圏では「Uranus(ウラヌス)」と呼ばれるが、「Ur(Your:君の)」「Anus(肛門)」と読めることから、学校では黒板に書かれるたびに笑いが起こる天王星。その大気のほとんどは、水素とヘリウムで構成されている。水素もヘリウムも完全な無臭——ということで、天王星は無臭だそうだ。

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