ジャミラ・ジョンソン=スモールの自由奔放な身体表現

彼女自身の言葉を借りるなら、ジャミラ・ジョンソン=スモールがダンスを愛しているのは、それが「ラディカルかつ社会的な命題」だから。そして実際、そのラディカルな側面は、ジャミラ本人がステージのオンオフで見せる姿からもはっきりと浮かび上がってくる。

作品の話をするために最初に会ったとき、ジャミラ・ジョンソン=スモール(Jamila Johnson Small)は録音なしでしゃべりたいと言い、私もそれを了解した。言葉はしばしば誤解されたり、じゅうぶんにその意味をくみ取られなかったりする。そして、ジャミラにとって、自分を正確に理解してもらうことはとても大切なのだ。そのときのインタビューでは2~3時間話したが、今回はメールインタビューというかたちをとることにした。そのほうがジャミラに合っていると思ったからだ。インタビューの主役より、作家役の方が彼女には向いている。

ジャミラはとてもはっきりと言葉をつむぐ。実際に話すときも、その言葉は揺るぎなく、そして注意深く発される。言葉の意味に重きを置き、表現にも気を配って。つまるところ、表現こそ彼女の媒介物なのだ。しっかりとした目的意識を持つジャミラのダンスにもまた、それが垣間見られるような気がする。

秋に観た作品『Dance Umbrella』で、彼女は自らをラスト・イヤーズ・インタレスティング・ネグロと称し、自身の作品〈i ride in colour and soft focus, no longer anywhere〉の初演を行った。暗いステージの上では大勢の人が話しており、その合間を縫うようにBGM(ジャミラの友人とコラボレーターたちが作曲したエレクトロミュージック)が鳴り響く。その音楽に合わせてひとり踊っているのが、ジャミラだ。あらかじめ決められた振り付けをただ踊るのではないその動きは音と音の隙間に自らの体をすべり込ませているようにも見える。とても魅力的だ。

一連の会話の中で、ジャミラはこんなことを口にした。「どうしたらまったく動かないでいられるかという考えで頭のなかがいっぱいになって、ときどき踊ることができなくなるの」。表現をすることの意味について疑問を抱く表現者、ダンスをする意味について疑問を抱くダンサー、ジャミラ。そうした疑念こそ、彼女の作品の根幹にある葛藤なのかもしれない。

ジャミラは、このあとロンドンなどでの公演が控えている。10月にはバーミンガムのフィアース・フェスティバルで〈i ride in colour and soft focus……〉のプレミア公演が行われる予定だ。

『Dance Umbrella』でのパフォーマンスについて聞かせてください。どのようにあのコンセプトにたどり着いたのですか? どのようなアイデアがあの中に込められているのでしょうか。

当時の私の精神世界を何らかのかたちで内包する、リズミカルなつながり、空気感、ランドスケープ。そんなものを思い描いていたと思うわ。騒々しさと混沌の、そして終末論的な興奮状態と瞑想的な静けさのはざまから生じる何かね。

これは私がつくった初めての長編ソロ作品なの。自分のほかの作品と一緒に上演したときの見え方とか、長年考え続けてきたことをどんなふうに表現できるかを探ろうとしたわ。つまり「今自分はどこにいるのか」に真剣に取り組んだというわけ。その過程で浮かび上がった疑問は「自分の体との関係性にデジタル技術がもたらすものは何か」「身体を“軽視する”というアート界の因習や“可視性”の探求に、どの程度挑めるか」「都市が体に与える影響とは何か」「私を突き動かすものは何か」「私のダンスはどんなふうに定義できるか」よ。複雑さの中にある“その瞬間”を描く作品をつくりたいと考えたの。

どのような思いを観客に伝えたいと考えましたか?

私が抱いている思いをそのまま。絶壁を歩く感覚、“どこでもいい”ではない驚くべき運命、静けさの後の騒音、昨日を踏まえた今、正しくやり遂げたあとの快感。物質間のテンションから発生した、あるいは破壊と再生を繰り返すフィクションのいち形態としてのダンスをつくりたかったの。

やりたいと考えていたことの1つは、自分のダンス作品をディレクションや明確なねらいがまったくないものにするということ。その裏にある想いや感情を表現するけど、観客に向かって説明したり提示したりはしない作品にしたかったのよ。非植民地的なプロジェクトだって言えるんじゃないかしら。

多くのあなたの作品は、(以前あなたが書いたように)“他者”としてカテゴライズされることが何を意味するのかという疑問についてのもののように感じます。

2016年の初めに、新年の誓いみたいなブログを書いたわ。自分の現状や立ち位置が、自分でつくり出したものではなくて与えられたものになりつつあったから、自分が望むものについて綴ったの。それに、白人至上主義者で帝国主義者でネオリベラルな資本主義者も、当時、私に自分の存在を消すことを勧めてきたわ。もううんざりだったの。作品づくりに関して、ひとつの肉体として、そしてダンスについても、自分の欲求をあらわにしたくなった。だからずっとその考えに忠実でいようとしているのよ。とてもとらえづらく不明瞭だけど、それでも何らかにはなるはず……。

とらえづらいかもしれませんが、その思いはパフォーマンスの中で非常に存在感があります。

この作品をつくっているとき、私の思考は瞑想中のそれで、考えを深める自分を表現するための振り付けに向けられていたわ。

私が出会ったすべてのものや人、見、聞き、感じたすべてのことのアーカイヴとして自分の体を使い、ダンス作品としてそれを具現化したいと考えたの。

ダンスとあなたは自然に結びついたのだと思いますか?

6歳くらいのころ、よくショーを企画して、家族に観覧料として50ペンス要求してたの。それ以来、そんなようなことがずっと続いているってことよね。ダンスのおもしろさは、みんなができるという部分にあるわ。可変的であいまいなものよ。だけど隠喩的な性質も備えている。総合的には、素晴らしくて複雑な表現形態だと言えるわ。

ほかのアート表現ではなく、ダンスでしか表現できないとあなたが感じるアイデアはありますか?

今言った理由から、私はダンスを魔法だと思っているの。何かをダンスとするための定義は、作品や人によってぜんぜん違うわ。とらえどころのないアート的、スピリチュアル、フィジカル、社会的、内面的なものは、表現こそできるけど、はっきりと言葉で説明することはできないでしょう。矛盾を内包できるところがダンスの素晴らしいところだと私は思うわ。ダンスの表現を成文化することはできない。判読不能なのよ。

〈i ride……〉でのコラボレーションはどのように進められたのでしょうか?

公演に向けて、全員と話をしたわ。自分が今考えていることや調べていること、今に至るまでに経験したことを伝えるためのこの作品をどういうものにしたいか、どういう感情をかき立てたいかを、何度も話した。実際にどんなふうになるかは想像せずに、言葉でショーを表そうとするからだいたい長話になるの。

音楽担当の人たちには、ちょっと違う話をしたわ。例えばシーリー・パーカーには、私の声でシャーデーの『チェリッシュ・ザ・デイ』のカバーをつくってほしいと頼んだの。フィービー・コリングス=ジェームズには、自作のポエムを送っただけ。何度も話し合いを重ねる人もいれば、そうしない人もいる。創作を何か超自然的なものと結びつけるのが好きなの。あれって雰囲気的なものじゃない?

あなたのワークショップ〈soft practice〉についてはいかがでしょうか。

わたし自身はあまり授業を受けたりワークショップに行ったりはしないの。すごく居心地が悪くなっちゃうし、学ぶことより教室内の力関係や決めつけに対処することにかかりきりになるから。それに、今まで自分が学んできたことの多くが服従と無意識的な修正のトレーニングだったということにも、思いを巡らせてきたわ。“反同化政策”の授業があるとしたらどんなものか、考え出そうとしているのよ。

〈i ride……〉の中であなたが見せる動きの多くは、私たちがダンスパフォーマンスで見慣れている、リハーサルをばっちりして、徹頭徹尾振り付けされた動きとは真逆のものに見えます。これは意図したものですか?

ダンスや振り付けはこうあるべきというアートの思惑を、根底から覆そうとしているの。懐古主義的なパフォーマンスは嫌い。過去に起こった何かをよみがえらせたり、パフォーマーが準備やリハーサルや繰り返しの演技をしたり、パフォーマーが何かを極めようとしたり……。そういうことにはまったく興味がないわ。

まったく同様に感じます。パフォーマンスにおけるあなたのセンスは、それとはまったく異なる場所から生じたものなのですね。

そこに至るまでに、私はこれまでに話したようなアイデアについて考えたり、行動してきたわ。自分の望むものをはっきりさせて、それに従うようにしているの。自分に対する期待や、これまでに自分が演じてきたやり方でダンスを束縛しないようにしてる。

リズム、シンコペーション、オフビートの文化的、社会的な影響についてじっくり考えたわ。最近舞台で観て感動したものも頭にあったの。ジェニファー・レイシー(Jennifer Lacey)、アントニア・リヴィングストン(Antonija Livingstone)、ドミニク・ペトリン(Dominique Pétrin)、それからステファン・トンプソン(Stephen Thompson)が演じた〈Culture Administration and Trembling〉や、レズリー・エワン(Lesley Ewan)とキャサリン・ホフマン(Catherine Hoffman)の〈These Tender Alms〉、ブノワ・ラシャンブル(Benoît Lachambre)の〈Lifeguard〉、それにダナ・ミシェル(Dana Michel)の〈Mercurial George〉とか。ほかにも、ラルフ・エリソン(Ralph Ellison)の『見えない人間』の序章、そのとき読んでいたレゲエの歴史に関する本、高度なデジタル技術、自作のビデオで踊る自分の体を真似るかたちでダンスをする方法や、“何ものにもとらわれない”体はどのように見えるのかということも考えていたわ。

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